桐詠堂プロフィール全文
気付けば、アウトローなキャリアを構築してきた半生でした。
慶應義塾大学から一流企業へ、という絵に描いたようなキャリアにどうしても魅力を感じられず、見事なほど紆余曲折な職業人生を経て、実感した自らの特性があります。
それが、「話を聴く」という特性でした。
まだまだ、駆け出しの20代。
時はバブル経済が終焉し、不況の坂道を転がり落ちた1990年代でした。
社会に出るまえの数年、国内外を放浪していたわたしは、ひょんなことからブライダル業界へ身を置くことになりました。
折下、豪華なホテルでの披露宴が主流だった結婚式が、人前式という新しいスタイルのレストランウェディングに移行する時期に、その潮流に乗ったベンチャー企業は、規模も業績も鰻登りとなりました。
午前様の残業は当たりまえ。
その労苦とトレードオフになった給料は、破格なものになっていきました。
しかし、「これもまた、ただのバブルなのでは」と胸騒ぎが波紋のように広がりはじめました。
そして、新世紀と30代の幕開けをまえに、自らのキャリアを真剣に考えるようになりました。
果てしなく続くように思えるワークキャリアを真剣に考えた結果、21世紀の産声とともに教育業界への転身を図りました。
イケイケのベンチャー企業から、お堅い学校職員への舵切りです。
これまた未経験の広報部という部署に所属することになり、オープンキャンパス業務なるものの担当となったことで、20歳前後の学生たちと関わるようになりました。
そうして出会った多感な時期の若者たちは、終業後に悩みを打ち明けてくるようになりました。
恋の悩みや就職の心配、家族の話や将来の夢と、さまざまな相談を受けるようになりました。
ピーターパンシンドロームよろしく、ステレオタイプなキャリア形成に興味を持たず、ベンチャーやら教育業界やらと硬軟渡り歩いてきたことで、彼らの悩みや突飛な発想にも、すべからく共感できる人間になっていたようでした。
その甲斐あってか、相談に来た学生たちが席を立つときには、とても爽やかな面持ちに変えることのできる聴き手としても存在できるようになっていました。
いわゆる大人と呼ばれる方々であれば、頭ごなしに否定するようなことを、「そういう考え方もありだよな」と本心から思える反応ができたことで、相談相手として見初めてくれたのでしょう。
あとで思えば、受容を前提としたカウンセリングを、自然体で実践していたのでした。
そうして若者たちの相談に乗るようになってから、ふと頭に浮かんだことがあります。
厳密にいえば、それまで漠然と考えていたことと結びついたという方が正確かもしれません。
考えることの重要性とその支援、というものでした。
学校の勉強では、この「考える」というプロセスが抜け落ちてしまいます。
それでも、社会に出ると、途端に「考える」という作業が求められるようになります。
大人になると、と言い換えることもできるかもしれません。
学生たちの相談事にも、それは当てはまりました。
十人十色、いろいろな悩みがあり、それら一つひとつについてともに考えるようになり、皆が等しくトンネルから抜け出そうとしている姿を目にするようになって、「考えることを、若者に教える」というコンセプトが浮かび上がりました。
30代の半ば、それを形にするために、早期キャリア教育と銘打った、中学生を対象にした塾を開くことを決断しました。
勉強は教えずに、自分で考える力を身につける。
暗記力を鍛えるのではなく、論理思考を習慣化する塾の開講です。
考える力がある人は、当然、自らの最適な学習方法を考えつく。
その結果、成績は上がるというロジックの塾です。
中学校が3つあるエリアの中心に塾をプロットし、その周辺エリアへ折り込みチラシを配りました。
それが、最初で最後の広告でした。
考えたメソッドが本物であれば、結果はついてくる。
必ず、塾生とそのご家族のクチコミに助けられて発展できる。
そう仮定していました。
学習塾に通っても成績が上がらないという中学生が、物は試しと集まってくれました。
アクティブラーニングが認知される前夜の船出でした。
グループワークを主体とした、まったく新しい形の塾は、1年後に定員を満たすまでになっていました。
純粋に、塾生とお母様たちのクチコミのおかげでした。
一度定員を満たしてからは、数を減らすことはありませんでした。
学校職員として働いていたとき、「独立して、これまでにない塾を開こうと考え、退職させていただきます」とわたしから告げられた部長は、そんなわがままな元部下に、素敵なプレゼントをくださいました。
「神奈川の大学で、キャリア教育の非常勤講師を募集しているから、エントリーしてみたら?」「キャリアカウンセラーが対象だよ」と。
これまた黎明期だった大学でのキャリア教育導入ということもあり、運良く採用となりました。
気づけば、昼間は大学の非常勤講師としてキャリア教育を、夜は塾で中学生にキャリア教育をという両輪で走ることができていました。
とはいえ、その頃の大学でのキャリア教育とは、一言でいえば就活予備校のような内容でした。
エントリーシートの書き方や面接の受け方、企業の見つけ方や業界・企業研究の方法といったものでした。
わたしの考えるキャリア教育とは、まるで異なる類いのものでした。
わたしが目指していたキャリア教育。
その定義は、「キャリアを仕事と捉えるのではなく、人生そのものと捉え、その人生をいかに生き抜くかを自ら考える」というものでした。
つまり、人文系のリベラルアーツ領域にあるものと、わたしは考えていました。
塾においてはそれができていましたが、当時大学でそれを実践している講師など、ほとんどいない状況でした。
なので、そのスタイルを斬新と受け入れてくれる方々もいれば、今ひとつ理解してもらえないことも間々ありました。
そのような教育に邁進していた傍らで、大学では学生のキャリアカウンセリングの機会を、そして塾では、塾生以上に保護者の皆様からの進路相談の機会を得ることになりました。
学生のカウンセリングは、もっぱら就職活動についてです。
一見すると、就活予備校の延長線上にありそうなカウンセリングと想像されそうですが、キャリアの定義をそこに置いていないわたしのカウンセリングは、その狭い範囲に留まりませんでした。
同様に、保護者の方々との面談も、話し始めは進路の話題でしたが、そこから発展し、いつしかご本人の人生相談へと発展することが常でした。
そこで気づいたことがありました。
それは、どちらの面談も、「仕事=ワークキャリア」が発端となるものの、最終的には人生における仕事という複合的なキャリア、すなわち「ライフキャリア」の話に変容することでした。
独立以降のわたし自身の方針が、確固たるものであることに気づかせてくれたのです。
そうこうしているうちに、塾経営の傍らで、複数の大学での非常勤講師を務めることとなっていました。
そのうちの一つの大学から、通常のキャリア教育とは一線を画した内容で授業を運営していたことが目に止まり、常勤教員としてのオファーをいただく機会に恵まれました。
20代のころには、想像もしていなかった仕事でした。
まさか、大学で教鞭を執ることなど、夢にも思ってみませんでした。
「考えることを、若者に教える」
そのコンセプトが、収束した瞬間だったと思います。
なぜ、収束してしまったのか。
つまり、発展していくのではなく、なぜ終焉を感じたのか。
「考えることを、若者に教える」
それが実践したくて独立し、教える場を与えられ、形にすることができました。
その、教える、つまり伝えるということを突き詰めるためのステップに入るべきタイミングで、どうして幕引きが頭をよぎったのか。
答えは、「教える」ことの傍らでいつも併走していたことでした。
相談を受ける。
話を聴く。
そして、目の前の個人に徹底的に向き合い、自浄へ導くためのお手伝いをする。
それでした。
目的は、クライエントの課題に対する解決策を導くことではない。
それはあくまでもカウンセリングの過程であって、最終的にはそれも含めた、頭の整理、心の整理による浄化作用が目的でした。
原点回帰。
独立のきっかけとなった、大学生たちとの相談の場で行われていた、わたしの聴き方でした。
わたしの役割が、「教える = 伝える = 話す」ことではなく、「聴く = 受ける = ともに考える」ところにあることに終着したのです。
一周して戻ってきたとき、「誰かのために、何かをする」「世の中の役に立つ」ということは、実際的には存在しないのではないかと考えるようになっていました。
話を聴くことで浄化されるのは、あくまでも当事者の方々であって、わたしは何もしていないのではないか。
仮にわたしにできていることがあるとすれば、それは、ただ、お話を聴いているだけ。
突き詰めると、ただただ横にいるだけなのだということに行き着いたのです。
もちろん、無責任に横でお話を聴いているだけでは、浄化という作用は起こらないでしょう。
逆説的にいえば、その作用を引き起こすことのできる聴き方をする人間だったからこそ、千名以上もの方々が相談にいらしてくれたのだと思います。
そうして、五十にして天命を知ることができたように思えたとき、まるで因縁のように、はるか遠い記憶が蘇りました。
「あなたは、話を聴くのが上手だね」
それは小学校4年生の子どもが、すでに40を過ぎた、父親の友人に掛けられた言葉でした。
自宅に招いていた父親の仕事仲間と、たまたま二人きりになったときに、彼の話を聴くタイミングがつくられました。
残念ながら、どのような内容をお話されていたのかを思い出すことはできません。
しかし、小学4年生の目線に合わせた話ではなかったのだと思います。
噛み砕きはしても、大人の人生譚をお話されていたような気がします。
それを子どもながらに真剣に聴き、子どもながらに真剣に考え、子どもながらに真剣に言葉を発していた時間が、当時の彼のなかの何かを整理することに繋がったのかもしれません。
そして、その言葉が掛けられたのだと思います。
子どもへの褒め言葉としては、まったく珍しいものだったと思います。
もちろん、わたし自身そんな褒められ方を、それ以前にされたことなどありませんでした。
だからこそ、鮮明にそのシーンがフラッシュバックしたのだと思います。
そしてそのとき、彼から何気なく発せられた言葉が、わたしの人生の方向を示してくれていたことを知りました。
気づけば、半生記のようなプロフィールになってしまいました。
桐詠堂は、このような人物が閑かに構えた、いまの時代の庵です。